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エゴは鏡に映った「影」である No.182004年1月19日

ミーイズム“ meism ”は資本主義の洗脳

私たちはいま平成の時代を生きている。昭和から、この平成の世の中に移行して良くなったものは、デジタル機器とそのインフラが発達したぐらいで、他に何か良いことがあっただろうか。私、千葉邦雄の目から見て、経済も人間関係も教育も社会制度も、次々に起こる殺人や衝動的で短絡的な事件等の質が、ものすごく幼稚になってきているように思う。

なんだか私たち国民全体の思考能力が退化してきて、しまいには、自分のことだけしか考えられない、まるで不機嫌な駄々っ子のような犯罪が増えてきているように感じる。つまり日本人全体を囲い込む種族の池の中に、大人としての善悪の判断や、他人の気持ちを汲み取ることが不得手な種族が増殖しつつあるように思う。ひとつにはGHQによる洗脳計画が働きすぎて、日本人の精神の中から道徳が欠落してしまったことと、情報氾濫社会を標榜しながらも、実のところは情報鎖国社会であることも作用しているのかもしれない。

でも何よりも悪いのは、物質資本主義が私たちの心の闇に増殖させるエゴイズムの作用だと思う。エゴイズムは私たちの見果てぬ欲望であり、その欲望の追求こそが私たちが幸せになる唯一の道である、と資本主義の力学は、私たちの耳元でそっと囁く。果てしない欲望の追求のみが、勝ち組として生き残る唯一の道であり、その道だけが、自由と至福と自己実現の道であると私たちを焚きつける。物質資本主義の欲望にしたがっての略奪ゲームに勝つことこそが、私たちを特別な幸福と成功へと導いてくれる、と教え込まれてきた。

物やブランドや土地や石油等は、数に限りがあるから、奪い合うことが正義であり、ときには略奪や詐欺や戦争も必要であり、資本主義のゲームの法則は、常に勝者側になることである。まあ、そんなわけで平成の私たちは、幼稚なエゴイズムに突き動かされて生きているのである。そして平成の社会構造も、日一日と大企業と官僚にとってだけ都合のいい、弱肉強食の世界に一気に進んでいるようである。

ミーイズム(自我)とは、結局のところエゴイズムであり、実に様々な意味で使われている。私がここでとらえるエゴの意味は、資本主義が私たちに刷り込んだ自分についての『幻想』という意味においてである。しかし極めて強力な『幻想』である。エゴはあなたが無意識に作り出す。それはまるで幽霊みたいなもので、目に見ることのできない、形もなければ境界もない。にもかかわらず私たちの人生をしっかりと支配しているのである。私たちの体に、私たちの精神に、私たちの心にしっかりと貼り付いているために、私たちは本当の自分を知ることができない。

つまりエゴとは、現実の私たちをありのままに映したものではなく、どちらかといえば私たちの嫉妬深くネガティブな自己像を映したものである。物質資本主義が刷り込んだ後ろ向きな生き方へとつながる『幻想』である。もし私たちのエゴが鏡に映った影のようなものであって、現実ではないと私たちが知ることができたなら、私たちの住む地球は、もっと光り輝く世界になっていたにちがいないと思う。

つまり私たちが鏡に映った偽者の像を、エゴが本物の像と勘違いするために、エゴは本来なら内面に求めるべきものを、私たちをして外に求めさせてしまうのである。私たちの外側に虚像を投影させるのが、エゴの一番の問題点であり、欠点でもある。私たちの本来の自分というものは、外に投影された『虚像』ではなく、私たちの内なる現実のリアリティに気づくべきなのである。「生涯を通じてあなたの中には2人の人が住んでいる。一人はエゴである。それはおしゃべりで、欲求が強く、ヒステリックで、打算的である。もうひとりは隠れた霊的な存在である。その英知の声は物静かで、めったに聞くことができない」とソグヤル・リンポッシェが『チベットの生と死の書』の中で述べている。

つまり、私たちの内面には「宇宙の導師」がいるのである。それは私たちの一部であって、私たちとともに歩んでくれる。そしてリンポッシェがこう結んでいる。「あなたの本当の記憶が、安らかな自信とともに、あなたに戻り始めるだろう。そしてあなたは自分自身の中にこれまで隠れていた賢明なる指導者を見つけたことに気づくだろう。その指導者は、あなたのことをことごとく知っている。何故ならそれはあなた自身だから」

私はエゴをなくしてしまえとか、エゴを押さえ込んでしまえとか、無視しなさいとかいっているつもりはまったくない。私たちは、自分のいかなる面も大切にしなければならないと思う。それは目に見え触れることのできる知覚の世界でも、目に見えない霊的な世界でも同じである。私がいいたいのは、つまりより自由な意識に到達するための「鍵」は、自分自身をエゴという幻想から解放してやることなのだ。人生究極の意味と満足は、自分の外に見つけられるものだという物質資本主義が刷り込んだ「幻想」から自由になることである。エゴから開放されれば、私たちは、本来の機能を発揮することができるようになる。

私たちの肉体はものを言わない。空っぽの入れものに過ぎない。エネルギーを入れているその器が、本当の自分だと思っているとしたら、それはとんでもない勘違いである。エゴが偽りの自分だとわかりさえすれば、何もそれを捨て去る必要はないのだ。あくまでエゴとは、本当の静かなる自分の本質とは相容れない、自分についての資本の主義が刷り込んだ「影」なのだと理解していればよいのである。とかく私たちは、自分のことを「肉体を持った精神」というよりは、むしろ「精神を持った肉体」だというふうに、目に見える肉体を中心に考えがちである。

つまり目に見える肉体を中心にして考え強調することは、エゴにとらわれた見方であり、一種の本来の自分を見失った記憶喪失の状態のようなものなのだ。言っている意味がわかってもらえるだろうか。

私たちが社会化されて多少ものを考えるようになって以来、このエゴという「影」はずっと私たちに付きまとっている。そしてこの「影」は、私たちの本性について誤ったメッセージを送り続ける。本当の自分を見失って「影」の言うことを聞いていると、私たちはいつしか恐怖と暗闇の迷路に入り込んでしまう。何が私たちを幸福にしてくれるかについて、とんでもない思い違いをして、結局いつも挫折感を味わうことになる。より豊かな至福の人生を歩むといいながら、自己主張ばかりするギスギスした人生を歩むことになる。自分についての「幻想」を見極めることができずに、闇雲に自己中心主義の行動に走ってしまい、虚しさばかりを噛みしめることになってしまう。

エゴは私たちを孤独にする。

資本主義の弱肉強食思想が根底にあるエゴは、私たちをして世界の中で孤立しているような幻想を無意識に刷り込んでいる。そして私たちは他の人々から切り離されたバラバラで不安定な気持ちにいつも追いやられ、得体の知れない孤独感と恐怖にとらえられる。この恐怖と孤独感こそが物質資本主義のインフラであるために、この間違った思い込み(幻想)は、社会文化である資本主義の略奪思想によってより強固なものに洗練されていく。

そして最近の小泉構造改革は、まさにこの思想の実現であり、ネオコンによる日本文化への侵略である。日本の伝統的な「和」の精神から生まれた「道徳」や「風習」や「伝統」は、もはや見る影もなくズタズタである。私たち国民の本丸である中流階級は、いまやネオコンに乗っ取られたブッシュ政権に媚を売る小泉構造改革によって、数年のうちにほとんど崩壊して消滅しまう流れに向かっている…。

資本主義に社会化された私たちは、それぞれがバラバラであると信じ込んでしまうと、先ほどからいっているように人生を弱肉強食のジャングルとみなすようになる。当然の結果として、競争や略奪や詐欺はお互いの不信と孤立を深め、この世界に自分が存在する意味そのものに対して懐疑的になり、常に不安を抱くようになってしまう。その結果として、なおさら自分の外にある物質的な確かな目に見えるものに慰みを求めて執着してしまう。

もちろん、その気持ちもわからないではない。世界中でテロが起こり、金正日が核を東京に打ち込むかもしれないとうそぶき、狂牛病や新型肺炎SARSや鶏インフルエンザのことが毎日のようにTVから流れてきているし、つい最近まで世界でもっとも安全な国だといわれていた日本が、いまやアメリカのように毎日殺人が起こる国に仲間入りしようとしているのだから。確かに、もう昔の日本ではないのだ。もうしばらくしたら経済でさえも、アジアの中で3番目ぐらいになってしまう可能性もあるようだ。しかし、まだまだ希望はある。

あくまで内面的な豊かさを求めるのではなく、物質的なものを求めるということは、結局のところ自分が他人よりも優れていることを、示さなければ収まらなくなってしまうということなのだ。より多くを手にいれようとし、より多くを周りに無神経に要求し、エゴをますます増長させていくことになる。そしてふと気がつくと、私たちは物質的なものに囲まれた生活がすべてだと思い込むようになっている。当然他人よりも自分が優れているのだと本気で信じ込み、対人関係の第一の鉄則は、その相手よりも常に自分のほうが勝ること、という風になっていく。

いまブッシュ政権を動かしているネオコンは、その生きた良いお手本である。彼らPNAC(アメリカ新世紀プロジェクト)のメンバーであるパールやウォルフォヴィッツやビル・クリストルやラムズフェルド等は、自分たちが関係している石油や軍需産業の利益のためなら、どんな犯罪にだって手を染めるにちがいない。そしてパックス・アメリカーナ維持のためなら、第三次世界大戦を起すことも躊躇しないワルなのだ。彼らはいま世界中から憎まれている。

とくにラムズフェルドが差別するように言い放った「古い欧州」のアメリカに対する憎悪は、ものすごいものがある。米・ソ連の冷戦に変わって、いまアメリカ・古い欧州の新冷戦が始まっている。エゴにとりつかれて世界中を敵にまわし、恐怖で無理やり世界の人々を屈服させながらも、知らず知らずのうちに少しずつ崩壊に向かって、世界から孤立していく道しか残されていない。ネオコンによるパックス・アメリカーナのやり方は、あまりにも幼稚で戦略が見えみえなのだ。いまアメリカは、双子の赤字のせいで世界最大の債務国に陥り、生命の意味をあざ笑うかのように、ただ心臓さえ動いていればよいといった具合のインチキ延命戦略で何とか生きながらえているに過ぎない。いずれ「古い欧州」を影から動かす伝統的な国際金融財閥たちに、使い捨てされるにちがいないのだ。

アメリカは特別な国であると、アメリカの支配者は考えている。「特別なものは何もない。もちろん人間も国も同じである」という考えは、エゴには受け入れがたいようだ。アメリカの文化的伝統もまったくエゴと同じなのだ。この社会的習慣のせいで、アメリカはいま、エントロピーでいうところの臨界に近づきつつあると思う。

エゴは自己顕示欲が強く、性格破綻者である

私たちが腹を立てるとき、私たちは無意識にエゴの言いなりになっている。人からどう扱われるべきかについて、私たちは、自分勝手に何らかの基準を自分の外に設けてしまっている。それこそが、エゴの思うつぼなのです。自分にばかり捉われているからこそ、あらゆるものに腹が立ってくる。しかし本当の私たちが腹を立てているわけではないのです。私たちに貼りついた「影」が、つまりエゴが腹を立てているのです。私たちの本当の静かなる「存在」には善悪の区別はない。したがって腹を立てる理由そのものがないということになる。

ところが、エゴが支配する私たちの意図的に社会化された世界では、他人がどう考えているか、いまどんなふうに感じているのかが気になってしまう。私たちに貼りついた「影」という鏡に映った野獣に、あなたの周りの人たちも、すっかり飲み込まれてしまっているのである。彼らは弱肉強食のジャングルの中で、「野獣」として、やるべき事をきちんとやっているに過ぎないのです。現実が物質資本主義という社会化されたジャングルになっている以上、そのことに私たちが腹を立てていても拉致があかないのです。エゴという私たちに貼りついた「野獣」をうまくコントロールすることができるようになれば、もう周りの人に対して正気を失うほど腹を立てることは、ほとんどなくなる。それと同時に周りの人たちに対して、傷つけることも傷つけられることも少なくなり、いつのまにか周りの人たちに優しくなっている自分に、はっと気づくようになる。エゴの幻想から自由になることができれば、人をありのままの「存在」としてみることができるようになる。そうなれば、あなたの自己実現の旅も、ずっと明瞭に見えてくるようになるにちがいない。

エゴという私たちの鏡に映った「影」は、常に私たちを攻め立て、心の安らぎを得るためには、もっと多くのものを手に入れなければならない、と暗示をかける。エゴは、あくまで目に見える外にあるものを基準にして自分を評価することを、私たちに教え込もうとする。目に見える外にあるものに基準を求めるということは、先ほどからいっているように鏡に映った幻影を追いかけることであり、エゴの求める「間違った方向に目を向ける」やり方に、まんまと嵌められてしまうことになる。そして私たちをして、常に外の意味のない現象に意識を縛りつけさせる。心の安らぎや豊かさや生きる意味や愛情さえも、外に求めるように仕向ける。

なぜなら、私たちが本来の内なる「存在」と愛に目覚めたなら、エゴは自分の活躍する唯一の舞台を失ってしまうことになるからだ。あなたが、物質資本主義のジャングルの中であらゆる物を獲得しようと野獣のようになって悪戦苦闘しているのを見て、エゴは飛び上がって喜んでいるのである。あなたはいつまでたっても満たされないために、首をかしげながらも、多分まだ獲得したものが足りないからにちがいないと、さらに多くのものを獲ようと、再びあなたは、すべてのエネルギーを消耗しつくすまで悪戦苦闘する。エゴが映りこんだ「影」をいくら獲得し貯めこんでも、幸福や安らぎを得られるどころか、不安や嫉妬や恐怖に一日中さいなまれる結果になる…。

そろそろ判ってもらえただろうか。結局のところ、これの限りない繰り返しが、エゴの伝統的な戦略なのである。だから物質資本主義の世界は、限りある資源をめぐっての果てしない略奪と、日替わりメニューの大儀を掲げた戦争が起こり続けるのである。これこそが、世界の歴史の果てしない戦争の理由であり、エゴのしたたかな手口でもあるのだ。

「恐れ」こそ、エゴの最も得意とするワナ

私たちが恐れを抱いているとき、そこには愛の入り込む余地はない。私たちの住む宇宙の本質は、目に見えないエネルギーであり、それはすべてのものをひとつに結び付けている。確かに量子力学的に表現すればエネルギーなのだが、それを人間の感性で表現すると「愛」なのである。そしてその「愛」こそが、私たちの本質なのである。唐突に感じるかもしれないが、それがこの宇宙の原理のようである。

エゴは、内なる「存在」である愛情に満ちたささやきから、私たちをして常に引き離そうとする。エゴにとって関心のある領域は、物質的な目に見える世界のみである。私たちが、内なる「存在」の囁きに目覚めるようなことになれば、エゴは自分が死んでしまうことになるかもしれないと危惧している。私たちが静かなる「存在」の囁きの意味を理解しないとき、恐れは、私たちの心の中に侵入してくる。そしてエゴは、愛の領域を消滅させるために、「恐れという軍隊」を、私たちの物質的な領域に拡大することを徹底的に企むのである。

そして何よりも資源である「石油」や「ドル」や「核ミサイル」や「ダイヤモンド」や「ウラン」を、自分のたちの手で独占することで、世界の国々を思い通りに占領しようとしてきたのである。英・米の物質資本主義が、日本の「和」の思想を忌み嫌うのはそのためである。平成の時代を迎えるまでは、日本はまだ「和」の精神を軸とした東洋を代表する精神主義国家だったのである。私たち日本人は、いま大きな試練に立たされている。

「私たちは、愛し、そして愛されるために、神様によって創られたのです」とマザー・テレサはいつも語っていたようである。彼女は宗教を超越して、貧しい人や病で苦しんでいる人たちのために、自分の一生のすべてを捧げた人である。平凡な私たちが、エゴを抑える努力を始めるにあたって、彼女の言葉は、何よりも深遠な暗示が込められている。私たちが今ここにいるのは、愛し、愛されるためである。それ以外の目的は、幻想である、とマザー・テレサは言っているのである。

もし私たちが未だに愛を経験していないとすれば、それは何らかの恐れを抱いているからということになる。その恐れの正体を、何としても私たちは検討してみる必要がある。そうすれば、その恐れを愛に変換してしまう方法が、きっと見つけられると思うのだ。しかし何故、今まで愛に気づかず、いつも恐怖にばかり私たちは捉われていたのだろうか。

その原因もやはりエゴにあるようだ。エゴは常にネガティブであり、疑り深くじめじめした影の存在である。『この世に住む人々はバラバラであり、資源は限られているから、生き残るためには略奪や戦争も正義である。それが物質資本主義のビジネスであり、ゲームのルールである。いったいこのルールの何処に問題があるというのか』

このルールには、しっかりとサバイバルの恐怖が埋め込まれている。そう、勝ち組負け組といういつも何処でもビジネスの場で使われる言葉の中にも、小泉構造改革の中にも、弱肉強食の力の法則が、グローバリストによってしっかりと埋め込まれているのだ。このままいくと、間違いなく日本から中流階級が完璧に消滅してしまうことになるようだ。

愛の占めるべき座を奪っている恐怖の正体は、簡単にいえば、自分を受け入れてもらえないのではないか、という恐れに尽きる。私たちが、生き残るために社会化されたジャングルで身に付けた最大の知恵は、防衛反応である。何よりも自分が周囲から孤立する恐怖である。その恐怖心を増大化させるのが度の過ぎた自尊心である。この度の過ぎた自尊心も、エゴが恐怖によって私たちの心の中で増殖させたものである。私たちが内面にある静かなる「存在」に目覚めるなら、私たちに不足しているものは何もない。私たちは、そのままですでに完璧な存在で、外に求めなければならないものは、何もないのである。

このコラムを読むあなたが、心の中で自分は完全であると感じ、内なる愛情に満ちた「存在」のささやきを感じることができるなら、「恐れ」は愛に変わり、これまでの恐怖に支配された人生を改めることができるはずである。本当の自分の「存在」を知ることができるなら、もはや恐怖に脅かされることはなく、自信に満ちた人生を、周囲の人と分かち合うことが少しずつできるようになると思う。

私たちの本当の「存在」は純粋な意識なのです。いまや量子力学もそれを認めています。純粋な意識は純粋な潜在力であり、あらゆる可能性と無限の創造性のフィールドです。純粋な意識は、私たちの霊的な本質です。何の束縛にも縛られていない、無垢な喜びであり、完全なバランス、無限の沈黙、無敵、そしてどう表現していいのかわからない至福です。これが私たちの本性であり、「存在」です。

あなたが自分の本姓を発見し、自分が本当は誰であるかを知れば、それを知るそのものの中にどんな夢でも実現できるパワーがあるはずです。それは、あなたの無限の可能性であり、かつてあり、今あり、やがてあるすべての自己実現の計り知れない潜在力なのです。この生命の限りないほどの多様性の底には、すべてのものに浸透しているひとつの英知の統一性が潜んでいるからです。あなたとこのエネルギーの場に分離はありません。この純粋な潜在力の場は、あなた自身の「存在」なのです。あなたが自分の本性を体験すればするほど、純粋な潜在力の場である「存在」に近づくのです。

なんだか今回のコラムは、いつものリズムと少し違ったものになってしまったなあ。

 

『終』

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