見えない軍隊とその戦場 No.11【2003年12月10日】
GHQの奴隷教育(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
戦後教育に、何が欠落していたかをひと言で言うと、それは「道徳」だと思う。「道徳」というと、今の日本人には妙に違和感を抱いてしまうかもしれないけど、これは実に基本的なことだと思う。なぜなら、道徳が教育の中から欠落してしまっているということは、教育される側の私たちにとって、あらかじめ善悪の判断基準を喪失してしまうということになる。
これはとても恐ろしいことなのだ。社会の、あるいは国家の構成員である我われが善悪の基準を失ってしまうということは、一体どういう結果をその国や民族に与えてしまうのだろうか。今更のようにそう考えてみると、現在の社会現象として起こってきている事件や現象が、何かしら一つの糸でつながっているように見えてくる。
罪もない小学生の首を切り落とし、校門の前にさらすという前代未聞の酒鬼薔薇事件、和歌山の毒カレー事件、西鉄バスジャック事件、少女をさらい、十数年にわたって監禁していた事件、嫁を家族みんなで監禁して餓死させた一家、援助交際で知り合った女子中学生を車から突き落とし殺す教師、親父狩り、出会い系サイトで安易に出会った後の短絡的なストーカー殺人等。
もはや何が起きても驚かない、崩壊の時代が訪れようとしている。とくに昭和から平成に変わるあたりから、すべての面で悪化の一途をたどっているように思う。平成に入ったころから、どうやら戦後の教育を受けた人々が、つまり私たちの戦後世代がリーダーになりはじめた頃から、何もかもがおかしくなりはじめているようなのだ。
なんとも嫌な気分だ。
戦前と戦後の教育内容を大きく変えたものは、教育制度といえる。それはつまり、戦後の日本を支配したマッカーサー率いるGHQが作った新しい教育制度の導入である。GHQは、仏教や神道や儒教といったものによって培われていた日本的な価値観を徹底的に排除し、その代わりに国際金融財閥によって、実験的な試みである全体主義的な民主主義という不思議な社会観を、日本の教育の中心の置いたのである。
仏教や儒教や神道などは、言ってみれば、日本人の『魂』であり、『道徳』であったのだ。古くは別々に日本に入ってきたようであるが、お互いに自然に影響し合いながら、日本人の心に染み込んできたと思える。その過程で、ゆっくりと時間をかけて変化して、ついには日本独特のものとなる。これらを昔から区別することなく、ひとつの道徳として受け入れてきた。そしてこれらの教えの中から、日本人は、人としての生きる知恵の多くを学んできたのだ。戦後生まれの芯のない平成のリーダーとは違って、戦前に教育を受けた人々には、たぶん、こうした日本人の道徳がしっかりと根づいていた。
ところがGHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムという洗脳教育には、こうした日本人の道徳教育が、当然のごとく欠落していた。そのため戦後世代の私たちには、悲しきかな、日本人としての道徳がまったく根づかなかったのである。戦前生まれのリーダーにあって、戦後世代の私たちに欠落しているのは、まさに日本人の道徳であり、魂のようだ。道徳が欠落しているということは、もちろん善悪の区別はつかないし、その結果として、当然意思決定もできない。人間の自由というものは、意思決定ができて初めて可能となるのだから、それができないということは、人間として、自由があらかじめ奪われてしまっていることになる。
結局のところ、GHQのつくった教育制度とは、日本人をアメリカの奴隷にするための教育であったといえる。あくまで、洗脳としての植民地教育が施されたといっていいかもしれない。そしてGHQの奴隷教育は、素晴らしい成果を挙げたといえる。平成の多くの私たち国民は、マスコミと流行に踊らされ、皆がすることを自分もやり、皆がしないことは、当然のように自分も無視する。もちろん若い女性は、皆が厚底サンダルやルーズソックスを履き、冬になれば皆長いマフラーを首に巻くといった具合なのだ。これは簡単にマインドコントロールできる国民が、みごとに量産されたことを意味し、これほど米英の金融支配者にとって都合のいいことはないのではないか。
戦後マッカーサーは日本のメディアを押さえ、日本人に向けてアメリカに都合のいい情報を流してきた。その結果、日本人の心には、貧しくて残虐な日本軍と、豊かで人道的なアメリカ軍といったイメージが、みごとに定着してゆく。いつしかアメリカは、世界で一番美しい国であり、一番強い国でもある。そしてしまいには、アメリカは常に世界の発展のために頑張っている、と信じるようになってしまっているのだ。
それでも戦後の日本は、まさに共存共栄を第一の目的とした社会であったと思う。価値の中心が金ではなく、最大多数の幸福においた日本は、ある意味に於いて世界で一番成功した全体主義社会といっていいかもしれない。平成の中堅である私も含めた戦後世代は、悲しいことに先人の功績を放棄し、アメリカ的であることが優れていると錯覚し、模倣することに一生懸命に生きてきた。そしていまも日本は、アメリカの奴隷国家としての道を歩み続けている。
その極めつけだったのが金融ビッグバンである。あたかも金融ビッグバンがグローバルスタンダードのごとく語られてきた昨今だったけれど、今となっては、その戦略の罠がほとんど暴露されつつある。金融ビッグバンは、はっきり言ってアメリカ、イギリス、日本の三ヵ国でしか行われていない。
もちろん金融ビッグバンが行われて、一番喜んだのはアメリカである。ゼロ金利政策が続く日本から1300兆円もの個人資産が、この金融ビッグバンによってアメリカにどっと流出するのは、誰が考えても目に見えていたからである。そして、すべてを受け入れたその結果として、いまの日本は、どんな素敵な境遇になったか?…最後にアシストの社長ビル・トッテン氏の言葉を借りたい。
「すべてを受け入れて日本はどうなったか?失業率、倒産件数、倒産に起因する負債、経済苦による自殺件数、犯罪率、麻薬中毒、離婚件数および出産率など、どれをとっても『戦後最悪』の現象がいたるところで起こっているのだ。これは弱肉強食の国、日本人の憧れるアメリカの民主主義社会そのものである」
顔のない人間生産国、日本
今日本人の半数以上の男女が、私をも含めて戦争を知らない。そして、もちろん戦後教育の中で育ってきたのだ。それは一言でいうなら、アメリカ信仰の洗脳教育だったといえる。もちろん洗脳される側である戦後の日本人は、それを正しい民主主義として受け入れ、世界平和を目的とするように教育されてきたように思う。まるで日本民族が、アジア人種ではなくて、まるでアングロサクソンそのものであるかのような感性やら価値観やら風俗やらを、何の抵抗もなく受け入れてきてしまっている。
いつしかアメリカの星条旗を美しいと素直に思い、日の丸や君が代に対しては、なぜか不思議と熱いものを感じない。もっといけないのは、戦後生まれの私たち国民が、それをどこか変だ、とすら思わない。その当然の結果として、日本の歴史にはあまり興味がなく、ビデオレンタルで時代劇なんか絶対借りてこない。それよりはクリント・イーストウッドの活躍する西部劇やダーティ・ハリーの方が、皆自然とワクワクしてしまう。
もちろん漢字や演歌はどちらかといえば不得意で、音楽はビートルズやビーチボーイやスティング等を無意識のうちに聞いてしまっている。その上ほんのたまに読書なんかする時にも、私たちの多くは、いつもアメリカや西洋人の書いた翻訳物のホラーや探偵ものばかりを読んでいたような気がする。
『国』に対する愛国心や民族的な意識が、まったく消滅してしまっている。歴史的な絆に結び付けられた多くの民族が、その絆を未来へとつなぎつつ、過去の歴史の記憶を背負っているような大きな力への信仰がなければ、私たちには真実の誇りや自信も生まれない。こういった尊厳による個人の犠牲を求め、規制するものとしての国や家族や民族の『尊い存在』があります。それが国民全体の、現在を越えた過去や未来とのつながりであり、絆でもあるはずです。
にもかかわらず、私たちの戦後世代の多くは、自分が日本人であるという認識がほとんどなく、どう贔屓目に見ても日本人のアイデンティティなんて、ほとんど深く意識したこともない。いったい私たちは何ものなのでしょうか。評論家である福田和也氏が、その著書『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』の中で、こんなふうに嘆いています。
(引用開始)
「驚くなかれ、私は『自分は日本人ではない』というような言葉を、国立大学の教授先生の口からも聞いたことがあります。この幼稚きわまりない先生は、とても学会での評判の高い、多くの業績を若くしてあげられている方でした。このような無邪気な人たちに、あなたは何語を話しているのですか、と、あなたは自宅で靴を脱ぎますか、とか、あなたは一体どこの誰が作った学校に通っていたのですか、とか、あなたが歩いている道は誰が作ったのですか、などということを尋ねて自覚を促すしかないのですが、まことに厄介というか、くだらないことです。ウンザリを通りこして、救い難い気分になってしまう。
そして、こういう日本人でない人たちは、そろいもそろって、みんな『いい人』なのです。善意と親切であふれかえるほどの『いい人』たちばかりです。 しかしながら、こういう『いい人』には、誇りがない、責任がない、さらに言えば、私が申すのはくちはばったいのですけれど、『倫理』というものを持ちえない。
なぜならば、そういう厳しい価値というものは、巨大な存在と自分が常にかかわっている、あるいはその歴史に参画している、そういう意識がなくては、持つことができない、育みえないものであるからです。あるいは、自分が国に所属し、それと拮抗するにしろ、尽くすにしろ、国の運命と自分がかかわっているという意識がないのならば、大きな責任感などというものが持てるわけがない。
大きな責任感というのは、仕事とか、立場とかいったものから生じる責任感よりもはるかに大きい、天地、永遠に向かって恥じない、みずからの存在そのものにかかわるような責任です。私たちは、この日本という場所で、さまざまな保護や支配の網目にとらわれています。その網目に異議を申し立てるにしろ、提案するにしろ、日本というものの存在見すえなければ、何もできません。
そして、日本という大きなものと格闘したり、逃れようとしたり、参加したりするような試みの中から、はじめて倫理的なものが生まれてくるのではないのですか。その大きなものをより良くしよう、個としての自分の発意にかなうものにしようという努力があってはじめて、個人は『国』という大きなヤスリにかけられるのです。はじめから、自分は日本人ではない、といっているのは、このヤスリから逃げているようなものです」
(引用終了)
私は必要以上に右翼的である必要はないと思っている。右翼的でありすぎると、国際金融財閥に逆にいいように利用されて、アジア人同士の戦争へと導かれ、しまいには純粋な愛国心を使い捨てにされる恐れもあるからです。いま世の中は単純に乗せられてしまうと、とんでもない方向へと導かれ洗脳されてしまう、何ともむずかしい時代なのです。
とはいえ、日本に住んでいる生命体は、もしかしたら世界初の民族としての顔のない、まるでクローン人間のような最初の生き物集団かもしれない。それでも、私は日本の再生は必ずあると信じている。そう信じているからこそ、いまこの文章を書いている。
見えざる「神」 に出会う決意
では、いったいどうすれば世の中の罠にはまらないで、メディアの垂れ流すインチキ情報やこま切れのニュースに洗脳されないで、日本人として、人間らしく芯のある人生を発見し送ることができるのか。グローバリストが押し付けた競争社会に勝ち残るためではなく、自然な自分らしい願望を目からウロコのように再発見し、それを現実の世界に実体化するには、最初に何から始めたらいいのだろうか。この現実の生活の場に、どうすれば無限の組織化する推進力を導きいれることが可能となるのだろうか。
それには、最初に、「静けさ」を体験するのがいい。いきなり唐突かもしれないけど、それが理屈抜きで一番近道であるように、私は思う。
静けさこそが、ある意味で魔法であり、再生や願望を実現化するために、最初に必要なものだと考えている。なぜなら静けさの中にこそ、私たちのために無数の細部をまとめあげてくれる、純粋な潜在力の場との接点が存在するからです。
それでもまだ論理の飛躍のように感じられるなら、とにかく、この文章の読者であるあなたは静かなところに行って、目をゆっくりと閉じ、柔らかな虹のような光に包まれているイメージを浮かべる。そしてその光の中で日常の雑念を洗い清めてしまうといい。心がふんわりと安らいでくると、その柔らかな光の中心に向かって、ゆっくりと歩いてゆく。そしてまるで天国への道を歩いているようなイメージを頭の中に浮かべてみるのだ。
光の中心に、どんどん近づいていく自分の姿を心から感じるのだ。そんな具合に最後の光の壁をついに突き抜けてしまうと、そこはまさに光り輝く楽園になる。やさしくふんわりとした光に包み込まれた、まるで自分が生まれてくる前の原初の胎児になったような幸せな気分に全身を包み込まれているようだ。自分が、生命の喜びそのものになってしまったような感じであり、とても言葉で表現できない平和な充実感に満たされる。長い熟睡から覚めたような、とても満ち足りた気分を味わう。アンドリュー・コーエンは『悟りの秘密』の中で、こんなふうに語っている。
『深い悟りを得たとき、つまり何かの本質が瞬間的にわかったと思ったとき、あなたは自分の人生に対して真剣にならなければならない。真実をありのままに見たと思った瞬間、それがあなたにとってどういう意味があるのかを理解しなければならない。この理解に達することができれば、悟りに対するあなたの自信は、どんどん大きくなっていくだろう。そして自信が強まれば、それだけあなたの英知は深まっていく。しかし、悟りの瞬間に疑いを差し挟んだりすると、あなたの道は危うくなる。なぜなら、あなたの自信が揺らいでくるからだ』
とにかく、自分を成長させるためには、自分の内面ととことんつきあう時間が絶対に必要である。だから、深い内省の静寂の中で時を過ごしてみてください。沈黙して内なる声に耳を傾ける時間と場所を作ることを、私はお勧めする。他には何もしなくてもいい。ただこれを毎日続けるようにするといい。日常の束縛とノルマから生まれる雑念を追い払い、沈黙の中に安らぎを見出すようになると、私たちの中を流れる、愛情に満ちたエネルギーの存在を、ただ感じるようになる。
とにかく沈黙という無目的な時間を毎日大切にし、そのときあなたは神(ここで誤解のないように説明しておきたい。ここでは、具体的な宗派の神のことを話しているのではないのです。自然の中に内在する『宇宙の法則』のことを、言っているのです。私の家は浄土真宗なのですが、日常の中でそのことをほとんど忘れています。だから具体的な宗教はまったく関係ありません)と共にあるのだということを心から信じてほしい。はっきりいってあなたの経験を、他人と共有する必要などないのだ。ただ自分自身の信念として受け入れさえすれば、それでいいと思う。
私たちの疑念は、深遠なる私たちの一部ではない。疑念とは、社会的エゴイズムの産物にちがいないのだと思う。エゴイズムとは、《私たち一人ひとりが自分自身に対して好き勝手に抱いている考え》であると思う。ようするに、エゴとは自分についての「幻想」のひとつなのだ。しかし、きわめて影響力の強い幻想といえる。このことがわかっていれば、私たちは疑念を抱くのではなく、むしろそれを客観的に眺めることができるようになる。私たちは、本当の自分の「存在」について知ろうとしているのだ。そしてその「存在」とは、本当の自分、目に見えない、より高い自分なのである。できる限り疑念から身を引いて、それがどうやって内なる無目的な静寂の世界に入り込むのかを、観察してみるといい。
そして、どうして疑念を抱くと、ある限定された行動しか取れなくなるのかを見極めてみよう。こうして客観的に観察すること自体が、疑念を消滅させてくれるちがいない。まず読者のあなたは、疑いが入り込む余地のない言葉を使うといい。そうすると、ごく自然に、あなたの人生そのものからも疑念が消えていく。あなたの行動は、あなたの言葉に従うものなのだ。そしてあなたの言葉は、あなたの内なる世界から出てくるものなのだ。とにかく、まず言葉遣いを変えなさい。まだ気持ちが伴っていなくても、いっこうに構わない。いずれ、その言葉通りの現実になっていくはずなのだ。
ウエイン・W・ダイアーがその著書『自分を掘り起こす生き方』の中で、こう述べている。
(引用開始)
「あなたが理想としていることが実現したときの気持ちを具体的に想像してみなさい。たとえばあなたは成功して、お金持ちになりたいのだが、それを実現する自分の能力に疑いを持っているとしよう。それならばまず、あなたがお金持ちになっているところを思い描きなさい。
それから次に、その心の画像の一歩先をいって、思い描いている成功が現実のものとなったら自分はどういう気持ちだろうかを想像してみていただきたい。おそらくあなたは満足しているとか、充実しているとか、ありがたいとか、幸せであるなどと感じるだろう。ところがそのような感情はあなたの内面の力で創り出すことができるものなのだ。
願望が実現したらどんな気持ちであるかがわかり、またその気持ちは完全にあなたの信念の力によって内面から創り出せるのだということがわかれば、成功しているときの感情を味わうためには他に何も必要ないはずだ。あなたが人生に引き起こしたいと思うことすべてについて、このような態度でのぞむことだ。まず心の中に思い描き、それからそれが実現したときの感情を確かめる。そしてその感情を内面から生み出すように努力するのだ。そうすれば、疑念があなたの中から消えていくのがわかるだろう」
(引用終了)
とにかく日常の喧騒のサイクルから一歩身を引いて、無目的な時間を作ろう。一日の中でほんの10分でもいい。そして、その無目的な静寂に、静かに全身をゆだねるのだ。そうすると、少しだけ自分が見えるようになってくる。日常の競争社会の価値空間に、少しずつ微かな静寂を潜り込ませて行くようにすると、何かが自分の中で変わり始める。私は、その何かが、本当の自分なのだ、と信じている。
【主な参考文献および記事】
(本記事をまとめるにあたり、次のような文献および記事を参照しました。ここに、それらを列記して、著者に感謝と敬意を表すると共に、読者の皆様の理解の手助けになることを願います。)
『自分を掘り起こす生き方』“ Your Sacred Self” ウエイン・ダイアー 渡部昇一訳(三笠書房 1996年)
『アングロサクソンは人間を不幸にする』 ビル・トッテン アシスト社長 (
PHP 2000年)
『なぜ日本人はかくも幼稚になったか』 福田和也 (ハルキ文庫 2000年)
『終』
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